今回はいよいよ、潰瘍性大腸炎と診断された高校3年生のときの話。
ここから長きにわたるIBD患者生活への道がスタートします。
※前回の話はこちら
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IBD回顧録(第3話)
志望校選びで自分を追い込む
高校時代、僕はやたらに学校の成績がよく、先生や友達から優等生扱いされるような存在でした。
しかし、実際はテストの問題を解くのが得意なだけで、実力は伴っておらず。周囲の期待が大きな重荷になっていました。
それによって引き起こされた最大の失敗が、大学受験での志望校選び。
流されるまま東京の某難関大学を第1志望にしてしまい、無駄に自分を追い詰めてしまったのです。
途中で、人が密集した都会での生活自体が嫌だと思い始めたのですが、時すでに遅し。
夏の終わりにはもう親が受験用のホテルの予約を済ませており、「やっぱりやめる」と言い出す勇気は僕にはありませんでした。
試験に落ちたくはないけれど、東京には行きたくない。
そんな葛藤を抱えての受験勉強がストレスとなり、徐々に体調を崩していきました。
腹痛に音を上げる
起こった症状は、高校受験のときと同じく、ひどい下痢。
ただ、前回とはそれに伴う腹痛が全く異質。腸を金属製のやすりで削られているような、激しい痛みがありました。
便に血も混じっていて、本当なら寝込んでもおかしくないレベルだったのですが、受験のプレッシャーと将来への不安で正常な判断ができなくなっていたのでしょう。
ボロボロの状態にもかかわらず、学校のテストや校外模試には無理して欠かさず出席していました。
ついに我慢の限界が訪れたのは、11月のとある土曜日。
午前中に、必死で下痢をこらえながら予備校で開催された模試を受け、家に帰ってお昼ご飯を食べた後、耐えがたい腹痛に襲われました。
とりあえず横になると一旦は症状が落ち着いたものの、しばらくすると断続的に痛みがぶり返し悶絶。
最初は通常の病院が開く月曜日までこらえるつもりでしたが、夕方ごろになって音を上げ、父に車で救急病院に連れて行ってもらうことになりました。
ちなみに、その日の昼食は冷凍のチャーハン。
今だったら絶対に避けるメニューですが、当時の僕には、おなかの調子が悪いときは消化に優しいものを食べる、という発想がありませんでした。
健康意識の低さって恐ろしい……。
救急病院は地獄絵図
完全に日が落ちてからたどり着いた救急病院は、さながら地獄絵図の様相でした。
待合室にいる患者さんは、いかにもな「病人」や「怪我人」ばかり。周囲からは絶えず誰かの呻き声や咳き込む音が聞こえてきました。
また、救急病院というと、緊急の患者さんに対して迅速に処置を行うイメージだったのですが、問診票を書いてから待たされた時間は1時間以上。
ずっと座っていると余計に体調が悪化しそうで、ゆっくり家で寝ておけばよかったと何度も後悔しました。
あとで知った話では、すぐに診察を受けたいのであれば、自力で病院に行くのではなく、救急車を呼ばないとダメなんだそう。
待合室には、うっかりタクシーで来てしまったがために、尿路結石の激痛にもかかわらず普通に順番待ちになっている悲惨な中年男性がいて、とても印象に残っています。(同伴者との会話が丸聞こえだった)
せっかく病院に来たのに……
やっと呼ばれた診察室では、症状について質問された後、聴診器でおなかの音を聞かれました。
10分もかからず出された診断は、ウイルス性の腸炎。
あくまで見立てではあるけれど、自宅で安静にして様子を見るしかないとのことでした。
いや、それじゃあ、わざわざ病院まで来た意味がない……。
納得できず、いかに深刻な痛みかを訴えたところ、先生は諭すように言いました。
「詳しい検査もできるが、さらに長い時間がかかる。しかも、結果的に対応が変わらない可能性が高い。」
要するに、おとなしく帰った方が得策だというわけですね。
その時点で、もう僕も早く帰りたい気持ちが強くなっていたので、それ以上は食い下がらず、帰宅を了承。
2日分の対症療法薬を処方され、「症状が治まらなければ、週明けに一般の消化器内科に診てもらってください」と説明を受け、病院を後にしました。
結局、薬を飲んでも改善なく、指示通り別の病院に行くことになるのですが、長くなったので今回はここまでにしておきます。
さいごに
最近『救急車が来なくなる日』という本を読んで、ようやくきちんと救急病院の役割を理解しました。
自分が患者として受診したときの印象は最悪でしたが、現場もいっぱいいっぱいなんですね……。