宮木あや子『校閲ガール トルネード』を読んだ感想。校閲と編集の間には思っていたより距離がある。

宮木あや子『校閲ガール トルネード』を読んだ感想・レビュー。校閲と編集の間には思っていたより距離がある。


宮木あや子さんの『校閲ガール トルネード』を読みました。

「校閲ガール」シリーズの3巻目、最終巻です。

やっぱり悦子は「校閲」で「ガール」でした。

「朝チュン」なんて知らなかった

「校閲ガール」シリーズでは、悦子の恋愛と仕事が物語の2つの軸になっています。

女性の宮木さんならではだったのが、いわゆる「下ネタ」の書き方。

普通そういう場面は読むのに気が引けるのですが、悦子のあっけらかんとした口調で語られるとおしゃれの話をされているみたい。

女性目線で軽やかに描かれていて、全然いやらしさがありませんでした。

といっても、僕は恋愛経験ゼロなので、男性目線も本やテレビで得た情報ばかりで、ちゃんとはわかってはいないんですけど(泣)


また、情事があったことを直接描写せず暗にほのめかす手法を「朝チュン」と呼ぶのは初耳。

爽やかな語感のワードなのに、そんな意味を背負わされているとは……。

たしかにうまい表現だけど、朝に鳥の鳴き声を聞いただけで変なイメージが浮かびそうなので勘弁してほしいです。


ゆとりは他人と比べない

話の中では、他人の成功を妬んだり羨ましがったりしない悦子が、周りからは変わっていると言われていました。

しかし、同じくゆとり世代の僕としては、他人と比較しないのは、割と一般的な感覚。

学生時代の友達もみな、口では「いいなー」と言いつつ、「自分は自分、人は人」の精神が身についていた気がします。


比べるとするならば、他人とではなく、理想の自分と。

思い描いていた生き方と自分の天職が違って泣いた悦子のように、自分自身と向き合って悔しがれるのが若い世代の強みだと思います。

最近「好きなことを仕事に」とか「自分らしく生きる」系の本が流行っているのは、ゆとり的な考え方が広く受け入れられるようになった証拠ではないでしょうか。


読み手のままでは編集者にはなれない

「校閲ガール」を読んで、編集者はただコンテンツを切り貼りするだけでなく、「作る」側の人間なのだと感じました。

悦子は自分が単なる「プロ読者」であることを悟り涙を流していましたが、「読む」スキルをいくら極めても、紙面を作っていく編集の仕事はできないんですね。

「読むのは好きだけど書くのは無理。だから編集になろう!」というパターンが多いのかと勝手に思っていたけど、僕の勘違いでした。


とくに女性誌の編集は、企画を生み出すのに相当なクリエイティビティが求められそう。

すでにできたものを磨き上げていく校閲とは、全く異なる能力が必要な作業です。

このシリーズは校閲にスポットを当てた作品ですが、書籍にかかわる他の仕事についても描かれていて勉強になりました。


さいごに

この本の最後には、ドラマで主人公を演じた石原さとみさんと、作者である宮木さんとの対談が載っていました。

小説では25歳の悦子も、ドラマでは28歳設定だそう。

本で読んだ作品はドラマでは見ない主義の僕ですが、どう違うのかちょっとだけ気になります。