東日本大震災との距離感と新型コロナの異常さ。 沼野充義『世界は文学でできている』を読んだ感想。


この本で印象的だったのが、対談の後の「おわりに」だ。

ちょうど東日本大震災の直後に出された本ということで、「『三・一一後』の世界文学を読むために」というタイトルで震災が文学にもたらすであろう変化について述べられていたのだが、そこに込められた熱量が半端じゃなかった。

こんなに本編そっちのけで、かつ「重い」後書きは初めてだ。東日本大震災からもう10年。当時の鮮烈な焦燥と使命感に溢れた沼野さんの文章に触れ、あの頃の社会のざわめきがよみがえってきた。


ただ、大変申し訳にくいのだけれど、僕は東日本大震災に関して、そこまでの当事者意識を持てずにいる。

僕の住んでいる九州地方では、震災に伴う揺れはなく、停電や交通の乱れなどの影響も皆無だった。

被害の甚大さは頭では理解しているつもりだが、いくらテレビで悲惨な映像を目にしても、所詮は二次情報。どこか遠い世界の出来事である感が否めない。

おそらく出版、メディア関係者のほとんどは関東圏在住(あるいは仕事で往来がある)のため、余震や電車の運休など何らかの形で震災を直接的に体験しており、日本人がみな同じ感覚を共有していると思っているのだろう。

しかし実際には、あえて口には出さないだけで、温度差を感じている人はたくさんいるはずだ。哀悼の気持ちはあるにせよ、「ともに寄り添って」ではなく「第三者として客観的に」が多数派だと思う。

どれほど情報の拡散速度が上がっても、地理的な距離は変わらない。そして、それはそのまま心理的な距離感に反映される。特定地域の震災に対して国民が一律に同じ感情を抱けるほど、日本は狭くない。


こう考えると、現在の新型コロナの流行がいかに異常かがわかる。国籍も経済的な豊かさも関係なく、世界中の人々が一斉に行動制限を強いられるなんてことが、今まであっただろうか。

沼野さんの予想通り、「3・11」の後からは、震災をテーマにした小説がいくつも出版されており、東日本大震災によって文学が変革を迫られたのは確かだ。

しかし新型コロナのパンデミックが文学にもたらす影響は、震災とは比較にならないほど大きいものになるだろう。そもそも人々の価値観自体がすでに根底から覆されてしまっている。

僕は、漫画の登場人物がマスクをせずに集まっている光景に違和感を覚えた自分に、静かなショックを受けた。


果たして、この「コロナ禍」は、今後小説でどのように描かれ、未来の文学に何を残すのか?

自分の読者としての内面の変化とともに見守っていくのが、少し恐ろしくもあり、楽しみでもある。