シンギュラリティは来なくてもAIは強い。新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を読んだ感想。

新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を読んだ。

本書では著者が主導した「東ロボくん」プロジェクトを通じて、AIの思考法やその限界が具体的に示されていた。AIに関する本は山ほどあるが、実際に「入試」という課題に対してどのようにアプローチしていくのか、研究者たちの試行錯誤の過程は読みごたえがあった。

「東ロボくん」の問題の解き方を知ると、著者がシンギュラリティは来ないと断言するのもうなずける。確かに、文章を「理解」をせずに確率、統計の力技で答えを導く今の方向性では、人間を凌駕する知能を実現するのは難しいだろう。

マシンパワーの向上だけでは意味がないのは、スパコンの「富岳」で行われた新型コロナの飛沫飛散シミュレーションのしょぼさを見て実感した。機械の計算力を生かすには、人間があらかじめ条件をうまく設定する必要があるが、現実の課題ではパラメーターは複雑で、単純な数式で表せるものは限られる。


ただ、ユヴァル・ノア・ハラリが『Homo Deus』で述べていたように、人間の思考も電気信号であり、ある種のアルゴリズムであることには変わりはない、とコンピュータによる知能の再現は可能だと主張する人も多くいる。

それならば、シンギュラリティも実現しうるのだろうか?

僕はシンギュラリティ肯定派の人は、「AI」というより「人間」の力を過信していると思う。シンギュラリティは、AIが人間の能力を超え、自分自身で自分の改良を行える時点を指すが、そこまでAIを成長させる役目を担うのは人間である。

そもそもコンピュータを動かす「数式」自体が人間の作った人工物であり、それが森羅万象を記述するに足る言語なのかは疑問だ。

仮にすべての脳機能がアルゴリズムで表せたとして、その数式が不変であるとも決まっているわけではない。人間だって自然の一部なのだから、個体差もあれば、時間変化も生じる。

たとえば、AさんとBさんではパラメータが異なるかもしれないし、同じ人でも今日と明日では別ルートで脳が問題を解いているかもしれない。いくら実験・観測を繰り返しても、再現性がないのであれば、普遍的なアルゴリズムとして数式に落とし込むことは不可能だ。


まあ、シンギュラリティは無理でも、AIは十分強い。

理解力に関しては人間がかろうじて優位に立っているが、計算処理能力や記憶力、耐久力ではコンピュータの圧勝だ。能力値をレーダーチャートで表せば、グラフの面積はAIの方がはるかに大きくなるだろう。事実、東ロボくんは「理解」抜きで数学や世界史の記述問題を解けるのだから、感心してしまう。

元々存在する生物の一部をいじる生命科学と違い、人の手で一から思考体系を構築するAIの研究は、ある意味より神様の行為に近い。神様(という名の自然法則)が生み出した人間と、その人間が作り上げたAI。両者が互いに切磋琢磨しながらどのような進化を遂げていくのかは見物である。