購読料の値上がりで考える新聞の存在意義

新聞の購読料が値上がりし、月額4千円を超えた。他紙に乗り換えるべきかと思ったが、どこも軒並み値段が上がっているらしい。ここまで高くなると、今から新たに新聞を契約しよう思う人はもういないんじゃないだろうか。

我が家で新聞の購読を継続しているのは、たぶんただの惰性だ。父は朝食後に新聞を読むのが習慣になっており、休刊日にはちょっと寂しそうな顔をする。僕はそこまで真剣に読んでいるわけではないが、新聞がないとなんだかしっくりこない。別に新聞がなくたって生活には困らない。ただ、今までずっと新聞を取り続けてきたから、あるのが当たり前になっている。

新聞のいいところは、家庭内で共通の話題が生まれることだ。父はゴルフ、母はテレビドラマやYouTube、僕は漫画や小説というふうに、家族それぞれの興味関心はバラバラ。そんな中、家族全員がとりあえず目を通している新聞は、誰もが参加できる会話のきっかけを提供してくれる。「社会人としての教養」みたいな意識高い系の用途として役に立ったことは全然ないが、我が家の中での共通知識としては有効に機能している。

しかし、逆に考えると、もし一人暮らしであったとすれば、「馴染みがある」以上に新聞を取る積極的な理由は見つからない。そもそも新聞がメインで取り上げるような政治経済のお堅いニュースに必要性を感じない。よく新聞が読まれなくなっている理由としてネットニュースの台頭が挙げられるが、問題はメディアの形式ではなく、情報の中身にあるのではないかと思う。社会の「一般常識」を求められるのは、一握りのビジネスパーソンや文化人。世の中の大部分の層にとって、新聞に載っているタイプの知識はもう必須ではなくなっている。

ネットニュースを読んでいる人も、ほとんどは自分から真面目に知識を得ようとしているわけではなく、単なる娯楽の一つとして気になった記事をクリックしているだけだろう。なんとなく流れてきた情報をなんとなく追っているだけでも社会生活に支障がない。そんな時代が、すでに来ている。

やや話が脱線してしまったが、僕は新聞が好きである。このブログだって理想は新聞のコラムだし、新聞にはニュース記事以外にも見どころがたくさんある。ただ、新聞週間などに語られるような新聞の意義や有用性は、いかにも頭で考えましたという感じがして嘘くさい。

最終的に新聞が生き残るかどうかは、朝井リョウの『スター』で述べられていたような、「心の問題」に行き着くと思う。純粋に、新聞で伝えたいか、新聞を読みたいか。送り手と受け取り手の想いの重なりが、ビジネスとして成り立つボーダーラインを下回ったとき、新聞は消える。曖昧で主観的、だけど、情報の質や利便性なんかよりもっとずっと根元的な気持ちの変化が、メディアの行く末を左右する。ディベートのように巧みな言葉でメリットを強調しても、状況をひっくり返すことは不可能だ。

我が家ではまだ「新聞高くなっちゃったね」という話しはしても、「じゃあ購読をやめようか」とまではなっていない。しかし、家計のことを考えると、どこかのタイミングで決断を迫られるときが来るだろう。

4コマ、テレビ欄、コラム、そしてニュース記事。いつ読めなくなるかわからない新聞のコンテンツたちが愛おしく感じる。


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